1916年に日本でラタン家具を作り始めて以来一貫してラタンに情熱を注ぎ続けてきました。
世界のラタン資源の80%以上をかかえるインドネシアにラタン工場としては世界最大規模の工場を1990年に設立。
創業以来ラタン専門で培った技術と日本のものづくりの精神のもと、現在日本以外にもヨーロッパとアジア諸国向けに生産しています。
ラタンをはじめさまざまな自然素材を積極的に取り入れ、リラックスできる生活シーンを提案しみなさまの幸せに少しでもお役にたてるように考え、願いながら活動をしています。
【1910年代~】元号が明治から大正へ 西洋文化が盛んに
1916年 | 宮大工を先祖にもつ木村儀三郎が枚岡市(現東大阪市)にて籐家具の生産を開始。 籐細工が時代の洋風化に伴い家具作りに拡大、籐椅子などを製作。 大阪の地場産業としての礎を築くとともに木村製作所、木村籐家具工作所を設立。 |
【1940年代~】世界的に戦時体制に
1940年代 | 戦時中はインドネシア原産の籐原料の輸入が困難になり、竹で代用して家具を生産。 戦後、沖縄駐在進駐軍用籐家具大量受注に応じるべく神戸、横浜の華僑を通じ籐原料輸入再開。 籐原料輸入の為の外貨割り当てを得て家具に加工後沖縄へ”輸出”、外貨獲得に貢献。 |
【1960年代~】大量生産大量消費・大型商品3C時代
1965年 | 香港から材料を直輸入開始。 |
1972年 | 柳行李の生産が盛んな山陰地方に工場開設、繊細な家具の装飾パーツやバスケットを製造。 |
1973年 | 株式会社キムラを設立。サンフラワーラタンを商標登録。 木村康男 社長に就任。より良質な原料を求めて本格的に海外進出を開始。 韓国、台湾、香港、中国広東省、シンガポール、インドネシアにて原料の加工と製品の生産準備。 提携工場にデザイナーと技術職人を派遣し海外生産を試行。 |
1975年 | 原料産地のインドネシアから製品としてバスケット類やシンプルなデザインの小物類を輸入開始。 日本国内の有力メーカーが続々と台湾進出。 百貨店・専門店の家具売り場だけでなくカタログ販売(通信販売)が広がり始める。 |
1978年 | 高級品とされていた籐家具の低価格化によるラタンブームが起こる。 百貨店・家具店では籐コーナーが設けられ、小規模籐専門店も急成長。 品質向上のため、インドネシア工場から大阪に研修生の受け入れを開始。以降40年以上継続中。 |
【1980年代~】ラタンブームの最盛期
1984年 | 国内販売会社ラタンワールド株式会社を設立。製造と販売の分離。 |
1987年 | インドネシア資源開発庁の決定で日本への原料輸出が全面的禁止に。 「材料が手に入らないなら籐がある場所に職人を」という逆転の発想でインドネシアに工場設立。 |
1990年 | 木村直樹 社長に就任。カリマンタン島に籐敷物専業工場を設立。 インドネシア各島より良質な原料を自社工場に集め家具・敷物の生産を開始。 |
1991年 | 台湾の工場を全面的にインドネシアへ移動し生産地を集積。 首都ジャカルタ郊外に自社工場P.T.GUNUNG MEGANUSA PERKASA(GMP)を設立。 |
1993年 | 原料の在庫切れから台湾での生産が不可能に。 業界全体で価格破壊と不良在庫により倒産と廃業が続く中、優秀な人材の育成に注力。 |
【2000年代~】IT革命 MDGsからSDGsへ
2001年 | 木村稔木村稔 社長に就任。 籐製品の国内消費は最盛期の5%にまで落ち込むが、GMPの安定生産により品質向上を目指す。 |
2002年 | 品質向上と安定生産のため籐家具専業工場と木製品工場を分離。 籐家具工場を中部ジャワ地方チレボンに移転。 |
2015年 | 木村匠史 社長に就任。 |
2016年 | 創業100年を迎える。 インドネシアの貿易に寄与を称えられインドネシア大統領よりPRIMADUTA AWARDを受賞。 |
2017年 | 東大阪市長より長寿企業表彰(Higashiosaka Long Established Company Award)を受賞。 |
現在 | 籐家具工場敷地約2万坪、木製品工場約1万坪、籐敷物工場3万坪にて稼働中。 インドネシアにて生産、日本にて商品企画・検品・販売・メンテナンスと籐の原料から製品まで 流通も含め専業者として全般的な要望に添える体制を整え世界各国の籐業者と共に歩んでいます。 |