日本でラタン製品を作り始めて100余年
サンフラワーラタンは、日本でラタン製品を作り始めて100年余り。ラタン生産量ダントツ世界一のインドネシアに世界最大規模の工場を設立して30年。日本の技術と品質の考えで現地工場の品質管理をしており、現在日本以外にもヨーロッパとアジア諸国向けにOEMとして生産しています。国内に常時在庫しているラタン製品のアイテム数は業界No.1。ロングセラー商品や素材感を活かした商品、リゾートホテルのようなラタン製品を使いやすいサイズでご提案しています。製品以外にも厳選したラタン素材を全国の工芸士の方々にお納めしています。ラタンを通じて様々なシーンでみなさまの幸せに少しでもお役にたてるように考え、願いながら活動をしています。
2017年、長年にわたってインドネシアの振興に寄与したことをインドネシア大統領より表彰されました。インドネシアにとってラタンは伝統産業であり、まだまだ一大産業なのだと感じました。私たちが工場を設立したときに働き始めたインドネシアの若者はおじいちゃん、おばあちゃんになりました。当時初等教育を修了していない人もたくさんいましたが、みな器用で彼らにとって身近なラタンを編むのが得意でした。彼らの子供や孫たちは今、勉強を続けてインドネシアの未来を担う技術者になったりなることを目標にがんばっているそうです。私たちはこれからもラタンを通じてインドネシアの人々にも寄与できればと考えています。
ラタンについて
やがて土に還る、自然素材
天然素材の恵みと安らぎ、優れた通気性と独特の質感、手作りのこだわりとぬくもりを感じさせてくれるラタン。使い続けることでまるで成長するかのように風合いを増していきます。熱帯に育つラタンは、樹木に比べ成長が早く、5年から10年で再生します。加工はほとんど手作業。木材と比べネジや接着剤の使用が少なくやがて土に還るラタンはとても環境にやさしい素材といえます。
いつの時代も日本の生活にフィットする、ラタン
丸くて軽く、柔軟で丈夫なラタンは、年配の方にも扱いやすく生活道具の素材としてぴったりです。吸湿性に富んだラタンは日本の夏と相性がよく特有のホーロー質に覆われた表面は冷感をもたらし、暑すぎる日も弱冷エアコンで快適に過ごすことができます。素材感のあるひとつひとつ違った顔を持つ手づくり家具はどこかに忘れてきた有機的なぬくもりを思い出させてくれます。これからの社会の空間づくりに癒しを与えてくれる彩りのひとつとしてあらためて注目されています。
グループ会社
製造輸入・工房
社名 | 株式会社キムラ |
創業 | 大正5年(1916年) |
設立 | 昭和48年11月(1973年) |
資本金 | 5,000万円 |
代表者 | 木村匠史 |
従業員数 | 23名(男11名、女12名 平均年齢43歳) 2021年3月現在 |
事業内容 | 籐製品・家具の製造、輸入 |
所在地 | 〒579-8063 大阪府東大阪市横小路町6丁目2番1号 |
電話 | 072-987-5577 |
販売
社名 | ラタンワールド株式会社 |
設立 | 昭和59年10月(1984年) |
資本金 | 1,000万円 |
代表者 | 重松亨 |
事業内容 | 籐製品・家具の販売 |
所在地 | 〒579-8063 大阪府東大阪市横小路町6丁目2番5号 |
電話 | 072-984-4647 |
工場
社名 | P.T.GUNUNG MEGANUSA PERKASA |
所在地 | Jl. Pasar Kemis km.2 Desa Sindang Sari No.88 Tangerang – Jawa Barat Indonesia |
沿革
【1910年代~】元号が明治から大正へ 西洋文化が盛んに
1916年 | 宮大工を先祖にもつ木村儀三郎が枚岡市(現東大阪市)にて籐家具の生産を開始。 籐細工が時代の洋風化に伴い家具作りに拡大、籐椅子などを製作。 大阪の地場産業としての礎を築くとともに木村製作所、木村籐家具工作所を設立。 |
【1940年代~】世界的に戦時体制に
1940年代 | 戦時中はインドネシア原産の籐原料の輸入が困難になり、竹で代用して家具を生産。 戦後、沖縄駐在進駐軍用籐家具大量受注に応じるべく神戸、横浜の華僑を通じ籐原料輸入再開。 籐原料輸入の為の外貨割り当てを得て家具に加工後沖縄へ”輸出”、外貨獲得に貢献。 |
【1960年代~】大量生産大量消費・大型商品3C時代
1965年 | 香港から材料を直輸入開始。 |
1972年 | 柳行李の生産が盛んな山陰地方に工場開設、繊細な家具の装飾パーツやバスケットを製造。 |
1973年 | 株式会社キムラを設立。サンフラワーラタンを商標登録。 木村康男 社長に就任。より良質な原料を求めて本格的に海外進出を開始。 韓国、台湾、香港、中国広東省、シンガポール、インドネシアにて原料の加工と製品の生産準備。提携工場にデザイナーと技術職人を派遣し海外生産を試行。 |
1975年 | 原料産地のインドネシアから製品としてバスケット類やシンプルなデザインの小物類を輸入開始。 日本国内の有力メーカーが続々と台湾進出。百貨店・専門店の家具売り場だけでなくカタログ販売(通信販売)が広がり始める。 |
1978年 | 高級品とされていた籐家具の低価格化によるラタンブームが起こる。百貨店・家具店では籐コーナーが設けられ、小規模籐専門店も急成長。 品質向上のため、インドネシア工場から大阪に研修生の受け入れを開始。以降40年以上継続中。 |
【1980年代~】ラタンブームの最盛期
1984年 | 国内販売会社ラタンワールド株式会社を設立。製造と販売の分離。 |
1987年 | インドネシア資源開発庁の決定で日本への原料輸出が全面的禁止に。 「材料が手に入らないなら籐がある場所に職人を」という逆転の発想でインドネシアに工場設立。 |
1990年 | 木村直樹 社長に就任。カリマンタン島に籐敷物専業工場を設立。 インドネシア各島より良質な原料を自社工場に集め家具・敷物の生産を開始。 |
1991年 | 台湾の工場を全面的にインドネシアへ移動し生産地を集積。 首都ジャカルタ郊外に自社工場P.T.GUNUNG MEGANUSA PERKASA(GMP)を設立。 |
1993年 | 原料の在庫切れから台湾での生産が不可能に。 業界全体で価格破壊と不良在庫により倒産と廃業が続く中、優秀な人材の育成に注力。 |
【2000年代~】IT革命 MDGsからSDGsへ
2001年 | 木村稔 社長に就任。 籐製品の国内消費は最盛期の5%にまで落ち込むが、GMPの安定生産により品質向上を目指す。 |
2002年 | 品質向上と安定生産のため籐家具専業工場と木製品工場を分離。籐家具工場を中部ジャワ地方チレボンに移転。 |
2015年 | 木村匠史 社長に就任。 |
2016年 | 創業100年を迎える。 インドネシアの貿易に寄与を称えられインドネシア大統領よりPRIMADUTA AWARDを受賞。 |
2017年 | 東大阪市長より長寿企業表彰(Higashiosaka Long Established Company Award)を受賞。 |
現在 | 籐家具工場敷地約2万坪、木製品工場約1万坪、籐敷物工場3万坪にて稼働中。 インドネシアにて生産、日本にて商品企画・検品・販売・メンテナンスと籐の原料から製品まで流通も含め専業者として全般的な要望に添える体制を整え世界各国の籐業者と共に歩んでいます。 |